ヤマダメモー

ゲームとかの感想やメモ置き場です

The Witnessプレイ日記(18)

 

31日目(2022/08/13(土))

要約:難破船に三行半

関東に台風が来ている。引きこもらないと。つーか31日目て。プレイだけでも1か月か・・・。

 

438クリア +107 +1 で開始。

難破船、実は前回心が折れて「the witness ヒント  難破船」で検索してしまいました。答えは見たくないので、記事自体を見る前に検索一覧を眺めると、「環境音」の言葉が。環境音?あー、うるさい音がパズル要素だったのか・・・全然気付かなかった。頭固い。

音のレクチャーあんま覚えてなかったので見直した。音の高低は正弦波の上下、もしくは六角形の大小(低高)で表現するっぽい。・・・なんで一律に小→大の順番だと覚えてたんだろう。ここ見直すだけで黒六角形で無理やんけ!の固定観念にはまらなかったのにね。頭固い。

で、ここだけで鳴ってる音は・・・

  • ブオーとかのホーンみたいな長い音。低中高の3種類ありそう。
  • 水滴のピチョン音。高さも回数も沢山ある。

ホーン音は実は2種類あるのかな・・・。それか、邪魔してるだけで水滴だけでやるのかな。いずれにせよ3色との対応が取れない。うーん、俺にはもう総当たり以外無理そう。

ということで手当たり次第やったけどギブアップです。今日も4時間考えてるし、もう限界です。ごめん。

 

ズルして開けた

答えから察するに、以下のルールっぽい。

  1. 対称に2つの線を伸ばすタイプである
  2. 六角形はすべて通る必要がある
  3. 六角形のサイズが、音の高さと対応する
  4. 六角形の色が、音の種類と対応する(と思う)
  5. 色は片方の線ですべて通る必要がある
  6. 六角形を音の順番に通す(多分色ごと。どこが開始地点か不明)

5のルールは、レクチャーでの理解不足だったなー、色が3種類ある時点で考慮が漏れていた。4のルールは試行錯誤をしてねって意図かもしれないけど、対応ヒントくれよ。合っても分からないのに。これ以上の試行錯誤は心の中のもったいないお化けが許してくれなかったし、残念ながら諦めてよかったと思います。人生諦めが肝心。

 

ただ、音のルールを見直したおかげで、街の解けてない防音室はできそう。2種類あったパネルで対応を取ればよいはず。即やろう。

できた!

できて見れば簡単なんだよなー、誤解があるとなかなか気付かないもんだ。

1階に戻ると2階に上れる階段が出てきた。行くと3面のパズルが。真ん中で色を変えるっぽい。

3面パズル

やっておきたかった風景を2つやれた。よしよし。

風景できたね

残りの両側にあるやつは、RGBごとの組み合わせで本当の色を考慮すれば良さそう。

できた

けど、別に何も起きない・・・もう1つの映画館ハニカム手に入るの期待してたんだけどなー。ここじゃないんかー。まあいいや、映画館行こう。

 

おじさんが話してくれました。

16:35:04開始

17:10:44終了

いやいやいや、ちょっと内容の前にさあ、35分も動画流す?これゲームよ?マジで校長じゃん、スクショ取りながら寝るかと思ったよ。せめて最初と最後の1分ほどの無言状態はトリミングしろよ何見せられてんだよ。

おじさんの語り口も穏やかでゆっくりでテンポもテンションも一定でさあ、無言の間も多用してさあ、内容も小難しいしさあ、動画なのに画面に動きがないしさあ、すげー眠くなるのよ。ゲームでこれ流すのないわー。とにかく作者の性格が悪い。

ムカついたので、逆にスクショで取った文字を全て文字起こしします。あと要約する心と脳の余裕がない。

自分が開かれ、空(くう)であり、光に満ちた「気づきの意識」であることを知りなさい。「開かれている」というのは、心と身体、そして世界のすべての現象を無条件にえり好みせずに受け入れるということです。あなたの心は、まっさらな空間のようにどんな現象も拒まないようにできています。わざわざ努力しなくとも、これはすでにあなたの中にある状態です。「空(くう)である」というのは、もちろん私たちは覚醒した意識を持ち、考えたり感じたり、何かを知覚したりしますが、「空(くう)」は思考や感覚、知覚の結果として存在するのではなく、認識や気づきが存在する、という事実のみに立脚します。そして「気づきの光」とは、まさに太陽のようなイメージです。分かりやすく言えばすべてのものを照らし、見えるようにする光です。だからあなたや私、この開かれて空(くう)である存在はすべての体験を認識することができるのです。実際には、私達は太陽によって照らされた物自体を見ているわけではありません。太陽の反射光や変調光が幾重にも折り重なった様々な色を、物として認識しているのです。同じように、私達は心と身体、世界といったものをありのまま見ているわけではなく認識を通して捉えたイメージを見ているのです。私達が知っていることのすべては、認識を通して経験したものであり、あなたはその認識そのものです。私達が知りうる事柄は「認識する意識」が見せる様々な相なのです。意識が自ら姿を変え、思考・感覚・知覚などになり心や身体、世界であるかのように感じられます。けれども実際には私達は、心や身体、世界と考えられているものを本当の意味では知りません。ただ、自分の認識によって作られる世界をしっているだけです。この認識は、私達の体験の実体ともいえます。唯一の実体と言ってもよい。これこそが「真の自己」なのです。私達が知り得るのは、この真の自己のみです。認識し得る以上のことは知りようがありません。自分が開かれ、空であり、光に満ちた「気づきの意識」であることを知る。それは、特別なことではありません。「気づきの意識」となるために、心を操作する必要もありません。何もしなくてよいのです。「真の自己」であるこの「気づきの意識」は、普段から「私」と呼ばれるもので、いつもここにあります。自分の体験と照らし合わせてみてください。私が今夜、皆さんにお話ししていることは、すべて今ここで、皆様が直接体験された事柄に照らし合わせることができるはずです。今回の講演は、特別な知識を与えるものではありません。私には、これを広めてやろうというような知識の蓄えなどはありませんから、私はただ、言葉の限界を感じながらも、現在の体験を述べようとしているだけです。あなたは「今」以外のことを認識できますか?「いまではないもの」を体験しようとしてみてください。まずは「過去」から始めましょう。過去を追憶することは簡単です。でも、その思いの対象である実際の過去を体験することはできるでしょうか。過去を体験しようとしてみてください。過去に戻ることはできますか?一瞬のうちに過去に戻ったり、未来に行ったりすることは可能でしょうか?過去にも未来にも、思いをはせる事はできますね。でも、あなた自身は?本当に行こうとしてみてください。これはただの哲学的な小話ではありません。過去や未来は体験できないという事実をしっかりと噛みしめてください。過去や未来を実体験することは不可能で、できるのは、それらについて思考することのみ。そしてそれを思考しているのは、常に「今」。過去や未来が体験できないという事実は、「時間」について、ある知見をもたらします。実存しない過去と実存しない未来との間を移動するのが時間である。これは理論です。必然的かつ有効な理論ではありますが、私達の実際の体験については説明されていません。誰も時間を体験することはできません。「誰も」というのは、認識を行う唯一の意識、つまりあなた自身を指します。私は先週、ロンドンからワシントンD.C.へ飛行機で移動し、今日ここへ来たのですが、迎えに来てくれた友人は私に尋ねました。「フライトはどうだった?何時間かかった?」その時、私は自分の思考が、古びたモーターを回す時のように軋みながら動き出すのを感じました。いったい自分は何時間飛行機に乗っていたのだろう…思考の歯車が回り始めようとしていました。私の体験の中では、どの瞬間も「今」だったからです。私はロンドンを去ったのではなく、ロンドンが私から去ったのです。私は飛行機に乗ったのではなく、私の感覚と知覚により「飛行機に乗っている身体」という概念が作られ、流れ込んできたのです。私の中に。私はワシントンD.C.に着いたのではなく、ワシントンD.C.が私のほうにやって来たのです。あるいは少なくとも私の思考が「ワシントンD.C.」と総称する認知の集合体が私の方にやって来たのです。同じように、あなたが、この部屋に入ってきたのではありません。あなたが、椅子に座ったのではありません。あなたが、私の話を聞いているのではないのです。様々に色づいた感覚や知覚が意識の中に現れます。でも意識自身は、どこかへ行ったり、何かしたりはしません。意識はいつも「今ここ」にあるのです。実在の場所や、具体的な時刻の事ではありません。「今ここ」にある私達の意識には、次元も時間もないのです。気付いているかはともかく、これこそが私達に起こっていることなのです。これを聞いてあなたの心は、やや抵抗を覚えているかもしれません。「確かにそうかもしれない。でも私の体験には紛れもなく連続性があるではないか。この紛れもない連続性こそが、時間が存在することの証明なのでは?」と。この連続性の感覚はどこからくるのでしょうか。私達が自分の心について分かるのは、今現在の思考やイメージのみです。それらの思考やイメージは断続的なものです。身体は感覚を通して認知されます。感覚も断片的なものです。世界について私達が知り得るのは、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚により知覚したもののみです。事実、私達が普段「世界」だと思っているものをありのまま体験した人はいません。知覚を通じて知ることができるだけなのです。そして、知覚もまた、断続的なものです。私達が心や身体と呼ぶものに連続性がないなら、連続性を感じるものの正体はいったい何なのでしょうか?「もの」と呼べるなら、それはただひとつの「もの」による作用です。それには確かに連続性があり、いえ、正しくは連続しているのではなく私達の体験に常に付きまとう「今」です。つまり「気づきの意識」である私達自身なのです。「気づきの意識」は、常にそこにあると分かっているただひとつのものです。心はこの意識については何も知りません。心に分かるのは明白な物事だけだからです。だから、あなたの心が体験にフォーカスしてなぜ連続性を感じるのか探ろうとしても、本当の答えは見えません。それで心は「時間」という実体を持ち出して体験の連続性を語ろうとするのです。時間の連続性とは、言うなれば、心という狭い枠組みの中から永遠を見ているようなものです。心という狭い枠組みから見ると、意識の、次元に縛られない「無限」という本質も永遠を見ているようなものです。連続性も永続性も「真の自己」である意識の永遠かつ無限という本質を、何とか、心のレベルで説明できるようにしたものにすぎません。「真の自己」について、実際の体験から他に何が分かるでしょうか?今この場で、自分自身について確実に言えることは何でしょう?思考が生み出した自己像ではなく、今この瞬間、実際に分かっているひとえに体験から導かれる真の自己とは何でしょう?開かれ、空であり、気づきの意識であるあなた自身に、何か働きかけることはできるか考えてみてください。思考、感覚、そして身体に働きかけることはできます。世界に働きかけることもできます。ですがあなた自身はどうでしょう?存在している心と身体、世界を認識するあなた自身。つまりこの、開かれ、空である存在は、何かによって動かされるでしょうか?想像してみましょう。たった今、あなたは…これはもちろんイメージにすぎませんが…あなたは、この部屋の空いている場所のように、開かれたまっさらな空間です。この部屋にあるどんなものも、空間を動かすことはできません。今、皆さんは静かに座っていますが、もし皆さんが立ち上がったりダンスや喧嘩を始めたりしたら、この部屋の空間はそれによって動揺するでしょうか?そういうことなのです。私達、つまり「気づきの意識」は、邪魔することも動揺させることもできないものなのです。努力して冷静沈着になれ、と言っているのではありません。真の自己は元々ゆるぎなく心の状態によって左右されるものではないのです。今この時も、あなたの意識は、何物にも動かされません。その意味で、私達の真の自己は「平穏」と同義です。平穏は、真の自己が持つ性質ではなく、真の自己そのものです。これは心の平安とは違います。心は多かれ少なかれ、動揺するものです。心とは別の、この「理解を超えた平穏」を得ようと、探し求める必要はありません。体験の後ろに隠れているものではないからです。表面的にはどんなに動揺しうる体験であっても、それを見て聞き、理解する意識それ自体は、どのような状況下でも光り輝く平穏そのものなのです。考えてみましょう。「気づきの意識」であるあなたに、何か欠けているものがありますか?思考や感情に基づけば、何かが足りないと言えるかもしれません。でも、あなた自身はどうでしょう?思考や感情を振りほどいた時、あなたの中に今の状態を排除し、今ではない何かと取り換えたくなる、そんな気持ちはわずかでも起こるでしょうか?あなた、つまり「気づきの意識」には、今を排除したい衝動や排除できる可能性などまったくないことが確認できるでしょう。今に対する抵抗がまったくない、この状態を何と呼ぶでしょう?ここにあるものをすべて受け入れ、ここにないものを求めないそのような状態を、普通何と呼ぶでしょう?そう「幸福」です。幸せな時、私達は「今」に抵抗したり、過去や未来に逃避したいと思ったりはしません。ここでいう「幸福」は、もちろん心や身体が心地よい状態を指すのではありません。そうではなく、真の自己がここにあるものに抵抗したり、ここにないものを探し求めたりする必要がまったくない状態を言うのです。ですから「幸福」も「平穏」も真の自己と同義なのです。幸福も、自己が持つ性質ではなく、真の自己そのものなのです。真の自己について、今体験していることから他に何か掴みとれるでしょうか?一昨日、サンフランシスコ国際空港から車でここに来る途中のことでした。私は助手席のサイドミラーに何気なく目をやり、鏡の下の方にこんな言葉が書かれているのに気付きました。「鏡の中のものはあなたが思っているより近くにある」これは、非二元の本質を突いた言葉です。意識の鏡に映しだされたものは、自分で思っているより近くにあるのです。鏡に映ったものは、鏡のどれだけ近くにあるのでしょう?そこには「鏡に映ったもの」と「鏡」の、2つのものがあるのでしょうか?それとも、あるのは鏡だけ?現存する心について私達が何か分かるのは、すべて、思考の働きによるものです。そして思考は、真の自己、あなた自身のきづき、すなわち意識から生じたものです。現存する身体について私達が何か分かるのは、すべて、感覚の働きによるものです。そして感覚は、真の自己、あなたの気づきから生じたものです。現存する世界について私達が何か分かるのは、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚といった知覚の働きによるものです。これらはすべて、真の自己、あなたの気づきから生じたものです。つまり、私達は心や身体、世界を本当には分かっていないのです。これらの呼び名も、深い体験に重ね合わせて思考が形成した抽象的な概念にすぎません。唯一実際の始点である体験そのものの観点に立つと、体験とはもっと親密で距離が近いものです。あまりにも近いので、自分自身の意識と意識する対象という2つものは区別できなくなります。これでもまだ抽象的かもしれませんが、思考や感覚、知覚というものが意識の中にあり、意識自体は何も発生させないという考えを半分でも理解できれば、今後の足掛かりになります。すべての経験の唯一の実体、思考や感覚、知覚の唯一の実体は意識として、すでにここにあるのです。知っている主体と知られる客体。その2つが分離されていない状態とはどんなものでしょうか。ここで「聞く」という体験について考えてみましょう。例えば、空調の音を聞いてみます。「音」や「空調」という概念は忘れてください。現存する空調設備に対して、今私達にできるのは音を聞くという体験だけです。聞くという体験は近くで起こっていますか?5m先?それとも、10m?思考が語る音についての知識ではなく、自分の体験だけを頼りにします。聞くことはどこで起こっていますか?近いでしょうか?どこか奥の方?聞くという体験において、聞く側と聞かれる側の2つの要素を区別できますか?自己自身という実体の奥深くで完全にひとつになってはいないでしょうか?この部屋についてはどうでしょうか?思考に基づけば、私という主体が部屋という外の世界を眺めているのだと思うでしょう。でも、体験は何を語るでしょう?現存する部屋に対して私達ができるのは、見るという体験だけです。見ることをやめれば部屋は消滅します。これは、私達が部屋を知らないのと同じです。分かっていたのは、見るという体験だけだったのです。見ることはあなた自身から、5、10あるいは15m先で起こっていますか?それともそれは、あなたと一体ですか?見る体験において、見る側と見られる側の2つの要素を区別することはできますか?それともそれは、つなぎ目のない一体化した実体でしょうか?すべての体験において絶対的な一体感を持つことを、私達は何と呼び習わしているでしょう?それは「愛」と呼ばれます。愛は、私達の知る中で最も身近な体験です。ここにある自己の感覚と、あちらにある対象物や世界との境目が崩壊し溶解する状態が愛です。分離や距離、他者性「私には関係ない」という感覚の崩壊、それが愛なのです。愛は非二元と同義です。非二元と呼ぶと、これに関心を寄せる人は世界中でも数千人しかいないでしょう。でもこれに愛や塀をん、幸福という名を与えると、世界70億の人々の関心を呼びます。では、愛や平穏、幸福がすべての体験の自然な状態であり、すべての体験の根幹であるなら、私達がそのように思えないのはなぜなのでしょうか?それは意識のうちに生まれ、意識のゆえに生み出されるひとつの思考に由来します。意識にも、思考や感情、感覚のような限界があるという考えです。鏡に映し出されるものの限界が、鏡の限界であると考えるようなものです。ただその思考の故に、私達自身であり、いつもここにある無限の意識にも身体と心のような明らかな限界があるように勘違いしてしまうのです。映画のスクリーンに映る映像が、あたかもスクリーン自体の限界を決めるように思えるのと同じです。このように、自分自身を小さく弱いものと思い込むことで本来無限であり永遠である意識は、身体や心に取り込まれ愛や平穏、幸福といった性質は一見覆い隠されてしまいます。この思い込みは、自分自身にそうした性質がないと思わせ、当然の帰結として、想像の産物にすぎない「失われた愛、平穏、幸福」を求めて想像上のものにすぎない「外の世界」をさ迷わせる原因ともなるのです。しかし当然ながら、思い込みで一線を引いて分離させた事故が探し求めている愛を外側の世界に見つけることはできません。なぜならその時、愛は覆い隠されているからです。分離した自己は飽くなき愛の探求を続けます。けれど正確に言えば、探究しているのではなく、今の状態を拒み、今の状態でない何かを求めているのです。この探究の目的は愛であるにもかかわらず、愛はこの探究が終わり、外の世界と内側の自分を隔てる線が崩壊することなしには見つからないのです。言うなれば、愛を探し求める分離した自己は、炎に焦がれる蛾のようなものです。蛾は炎を欲し、それに近づきたいと思う。でも、炎は蛾が触れることのできない唯一のものです。なぜなら、炎に触れると死んでしまうからです。それでも蛾は、触れることでしか炎を知ることができない。触れた途端、蛾は炎になります。分離した自己も、愛を見つけると、その中で崩壊し、消滅します。愛を体験することは、分離した自己が崩壊し、消滅することなのです。ですから気をつけましょう。ただ開かれ、空であり、光に満ちた「気づきの意識」でいましょう。そこには本質的に愛と平穏、幸福があるのです。愛と平穏、幸福は体験の後ろに隠れているものでも、求めて得られるものでもなく、すべての体験の中心で、全貌を明らかにして光り輝いているものなのです。そう、平穏とか幸福と呼ばれる実体こそ体験の本質なのです。(7021文字、ノーチェック)

 

さて、最後の映像のための場所が見つかってない。もう一通りの場所は探したし、街の残ったパズルも違ったから分からん。心が折れているので、もう見ます。ネットは広大だわ

はー、チャレンジの先でハニカムが手に入る。

はー、チャレンジに行くには、最後のゴール前の赤い部屋の製作者みたいな石像のパズルを解く必要がある。いや、そこ前にも見たけどパネル暗かったよ。

はー、その石像のパズルを起動するには、レーザー全て起動後に、頂上の人が持っているやつを起動させる。え?もう起動したじゃないのよ。何を言うやら。

下に伸びてるんかい

もう一段隠すの上手いなーと思う一方、気付くかよ!って気持ちが強い。レーザーと隠している蓋の数が一致するかで疑わないといけなかったのか。本数も数えてなかったわ。私の負けです。

てことで、次回はチャレンジやってみよう。

 

438クリア +107 +1 で開始。

443クリア +109 +1 で終了。

 

プレイ時間:7.5時間(累計70時間)